「日本語が亡びるとき」を読んで

この休みを利用して、指をくわえて日本から送られてくるのを待っていた本、「日本語が亡びるとき」を二回読んだ。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

ブログ界でも話題になっていて、前回のエントリーでも少しだけこの本について触れた。


もう既にウェブ上には、この本に関する書評は溢れているので、今回は自らの感想を書きたい。

(もし書評をお探しの方は自分のブックマークにいつくかあるんでそっちを
また、以下の話は本書を理解していることを前提に話させてもらいます)
 http://b.hatena.ne.jp/MACKEY32/日本語が亡びるとき/




英語の世紀に入っていることは承知していたつもりで、そうも思わなければ、日本を離れる事もなかった。
実際、英語環境で勉強し、またバンクーバー特有のマルティカルチャーの中で生活すると、英語の世紀を肌で感じる。


この本を読んではっきりした事は、世界中の<叡智を求める人>がアクセスする英語、<普遍語>の<図書館>に自らもアクセスできる鍵を握っている事の意味。
そしてこの鍵を握った者として、これからの世紀を二重言語者として生きる責任を感じた。


また、感銘を受けるのが、福沢諭吉夏目漱石に代表される日本が誇る<叡智を求める人>の凄まじい勉強ぶりである。
第四章に紹介されている福沢諭吉の西洋の文明、<普遍語>からなる人類の叡智、に対する執着と勤勉さ。
それらを読み、今の自分を振り返るとなんと環境に恵まれているんだろうと思い、これ以上のない幸せと同時に、あるからにはこの環境を最大限に利用しなきゃいけないと、責任を感じる。

  • 第六章、「インターネット時代の英語と<国語>」に紹介される<普遍語>の<図書館>について

唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな<普遍語>となりつつある英語の<図書館>であり、その<図書館>だけが、英語を<外の言葉>とするもの凄い数の人が出入りする、まったくレベルを異にする<図書館>なのである。
p246
・・・
要するに、これからの時代は、<読まれるべき言葉>の序列づけの質そのものがもっとも問われるようになるのである。p247
・・・
つかのまの命を生きる私達人間にとって、何がより<読まれるべき言葉>であるかを知るのは、大きな課題である。p248
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英語の<図書館>は<普遍語>の<図書館>でもあることによって、世界中の<叡智を求める人>がアクセスし、何がより<読まれるべき言葉>であるかという序列を、もっとも<世界性>をもった、もっとも厳しいところで、おのずから創り出す必然性がある。p248
・・・
これから四世紀後、漱石のような人物が日本語で書こうとするであろうか p260
・・・
それ以前に、果たして真剣に日本語を読もうとするであろうか。 p265




私みたいな人を、福沢諭吉夏目漱石に置き換える事自体、失礼に値するかもしれないけど、もし彼らが今の自分の立場だったら、これからの進路をどのように進むんだろうと考えた。


日本に帰るか、またはカナダに残るかという選択は、<国語>で勉強するか、<普遍語>で勉強するかという選択でもある。


彼らだったらどの道に進むんだろう。言わなくても答は出ていると思う。




また、この本を手に取り読んだ一日本人として、または4年で培った二重言語者として、日本が必要としている、

世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材

ならなければいけない事を責任を持って感じる。


それは自分が出来る日本社会に対する貢献であると同時に、使命であることも勝手に感じる。


福沢諭吉夏目漱石が今を生きていたら、進むであろう道を、自分も進みたい。




そして、<叡智を求める人>が集う<普遍語>の<図書館>にアクセスできる喜びをかみ締めながら、これからも人類の叡智を知る喜びを思う存分楽しんでいく。


Universal Libraryについての参考